日泰建設の誕生

西松お香港進出が行われていた頃のことである。

西松三好社長のもとに当時、顧問契約を結んでいたピーターソン・コープの代表者である米国人のチャールズ・A・ピーターソンから一件情報が寄せられた。

それは、米国の資金援助で実施されるバンコク郊外を起点とするフレンドシップハイウエイ建設工事に関するものであった。

以前から大運河建設を想定して進出を考えていた西松三好はさっそく渡泰しバンコク市内のエラワン・ホテルに荷を解いた。

西松は工事の入札案件に求められる日泰合弁会社の設立準備に取り掛かる。

当時のタイでは、合弁会社の設立にはサリット首相の裁可が必要であり、そのためには首相自らによる引見を受けなければならなかった。

しかしながら、首相と接触する糸口が見つけられないまま時は徒に過ぎていった。

西松三好のタイでの滞在もやがて2ヶ月になろうとしていた頃、後に日泰建設の重鎮となるポンパオ・ウイスティパンや当時バンコク日本大使館に駐在していた居後宮書記宮(後に大使)の知遇を得て、ようやく首相宮邸とのチャンネルがつながった。

ポンパオ・ウイスティパンは、泰の各門タマサート大学法学部を卒業後、タイ国運送公社に勤務していたが、偶々、西松が親交を得たのは、公社の総務部長の要職にあった40歳頃のことである。

合弁会社の設立にあたっては、彼の広く豊富な人脈が大きく寄与している。

そして、昭和37年(1962)9月、バンコク首相公式宮邸でサリット首相と西松三好の会談が待たれることになった。

席上首相は、「貴殿の会社は極めて協力で十分経験のあることを知っています。貴社がタイ(の社会資本整備)にご協力下さることは私の最も希望するところであります。今後タイの社会資金整備を推進するに当たっては、ぜひ西松の協力を得たいと思います。」と合弁会社設立に理解を示した。

更に、首相から、タイ国と日本の友好を祈念する意味から、社名をタイ・ジャパン・コンストラクションとしてはどうかとの提案があって、英文名では「Thai Japan Construction Co., Ltd.」日本名を「日泰建設」と定めた。

この日本名は、平成4年(1992)6月に「泰国西松建設」と変更されるまで30年間に亘って継承されることになる。

こうして合弁会社設立にも目処がたち、翌、昭和38年(1963)12月には難航していた日本政府の許可も取得して、タイにおける法人設立登記を完了することができた。

大空義博が日泰建設常務と西松の初代バンコク営業所長を兼ねて渡泰した。

やがて、バンコク、ヒヤタイ街67に事務所が設けられ「日泰建設 (Thai Japan Construction Co., Ltd.)」と西松建設バンコク営業所」の拠点とされた。

資本金500万バーツで設立された日泰建設の役員は表に見る通りに構成された。

設立時の日泰建設役員

社長 チツケンサンタノム中将
      (タイ国第2兵団長 運輸公団総裁)
副社長 西松 三好 (西松建設社長)
サンワンチャントラサカ
      (官房長官 アジア銀行常務理事)
専務 ワンチャラム(産業省監察館)
常務 大空 義博 (西松建設バンコク営業所長)

社長に就任したチツケンサンタノム中将は首相の片腕といわれた人物である。

タイ側役員には、政府高官が名を連ねた。

当初の業務分担は、タイ国側が受注、渉外を担当し、日本側は技術、機械、資材管理、資金供給及び直接施工に関する事項とされた。

まさに前途洋々たるスタートであり、同時に日タイ民間外交の架け橋としての大きな期待を担うものであった。

タイには、その後、多くの日系建設業者が進出しているが、西松の進出はその先駈けとなり、それは日本の建設業界にとっても竹中工務店米国(昭和35年設立)に次ぐ2例目の海外現地法人の設立でもあった。

2度に亘ってタイ国営業所長を務めた林五十鈐は、タイ国への同業他社の進出状況について次のように語っている。

「1960年代の後半には、大林組、竹中工務店が日系営業の工事を受注することを主体にして進出を果たしていました。その後、住友建設が橋梁工事、間組は鉄道工事を、鹿島建設、前田建設JVが道路建設を受注しました。

しかしながら各社とも工事の欠損が大きく工事の完成後には引き揚げを余儀なくされ、その結果、継続的に営業基盤を置いていたのは西松、大林、竹中、住友の4社だけとなり、以後、この4社がタイの先発4社と言われるようになりました。」

書記の海外現地法人の設立

設立年(昭和 西暦 企業名
昭和35年 1960 竹中工務店(米国)
昭和38年 1963 西松建設
昭和39年 1964 鹿島建設(米国)
昭和40年 1965 フジタ工業(ペルー)
昭和42年 1967 青水建設(ブラジル)

念願の現地法人の設立なった西松では大空義博、田中悦次、前田曙らがバンコク市内の小さなホテルに篭って初めての応札準備忙殺されていた。

アメリカの経済援助資金に基づくバンコク、ナコンパトム間の延長14キロ、6車線のハイウエイ建設工事である。

この工事が冒頭に揚げたポーターソンから寄せられたフレンドシップハイウエイのことを指すのか、或いは違うのか筆者は分明でない。

それは兎も角として、この工事はアジアハイウエイ建設の一環として国際入札に付されたものである。

アジアハイウエイのことを補足しておく。

それは、13世紀に「東方見聞録」を著したイタリア人、マルコポーロが4年かけて踏破した道をハイウエイで結ぶ壮大な夢の実現を目指した計画でもある。

国連の地域開発機構の一つであるESCAP(アジア太平洋地域経済社会委員会)は、第二次大戦によって荒廃したアジア、極東地域の国々の経済復興をするために設立された。

昭和34年(1959)に打ち出されたハイウエイ構想は、ESCAP地域の道路網を個々の国々の利害を越えた立場に立って整備を図るものである。

道路網の延長は約6,600kmで西はイラン・トルコ国境から、東はインドネシアのバリ島までまたがり、関係15ヶ国の国道の主要なものを順に繋いで構成したものである。

全行程の8割は既存の道路を利用するが、約2万数千キロが新規に整備される。

しかし、激動の時代にあって夢の実現には常に困難が横たわった。ハイウエイの起点となるサイゴンは、ベトナム戦争の泥沼に呑みこまれ、戦乱はラオス、カンボジアへと広がっていた。

インドとパキスタンは3度も戦火を交え、アフガニスタン内戦、そしてイラン・イラク戦争と夢はその度に遠のいていったのである。

話し戻そう。

西松三好は、漸く見積りの仕上げにかかると数字を縁起のよい末広がりの8880万バーツにまとめて入札金額とした。当時の邦貨換算で約13憶円である。

昭和39年(1964)1月、西松の入札額は11社の応札者中で最低札となった。

やがて、15名の職員が見知らぬ南国に赴任し、香港のロアシンマンダムに続く海外工事が着工された。

しかし、いざ施工の運びとなっても未知の体験の連続で、気候、風土、風俗習慣、食物、言語の異なる異国での困難さは想像を超えた。

土工事が主であるため、雨季は泥沼、乾季になれば堅く固まり、施工面でも、労務管理面でも悪戦苦闘の連続であった。

加えて資金不足にも悩まされ、取下金の入金を待ち望むことが常態となった。

その後、2代目の営業所長を務めた影山五郎は、この工事について、「企業先が土の締め固めに要求する基準が高くて、タイヤの跡がつかなくなるまで散水と転圧を繰返したが、日本ではそこまで求められることはなく、見積の段階での認識の違いが原因して工事の採算はよくなかった。」と語っている。

同じ頃、前田建設が施工していたチェンマイ工区を舞台に、作家の曽野綾子が小説「無名碑(講談社)」を著している。

約28キロに及ぶ工区は、気温50度を越える灼熱の密林地帯。しかも、世界有数のキングコブラの生息地帯であった。

西松もその取材に協力したというが、引用して当時の様子を窺う。

《タイ人の運転手たちは、全く気紛れな陽気さか、無責任な陰鬱さで運転席に乗っていた。彼らの中にはどの部分の路面を自分の乗っかっている重機が走ったかなどということについて、全く記憶せずにローラーを動かす者もいるのだ。

すると路面は乾パンのように圧密された所と、カステラのように柔らかい場所ができ、ブローマン(筆者注:企業先の米人監督官の名前)は、カステラの部分を敏感に嗅ぎつけて嬉しげに掘り起してはそれを不合格とする。》

機械や資材の盗難事故にも頻繁に見舞われた。

「無名碑」にも、日本から到着したばかりの散水車が、「猫にしゃぶられた魚の骨の絵のように、凡そ取りはずせる限りの部品を奇麗に盗まれて棄ててあった。」と描かれている。

初代所長の大空義博は、西松三好にこう言われたという。「この仕事はタイでの最初の仕事だ。赤字は止むを得ない。但し、職員だけは今後の海外進出の立派な要因だから学校だと思って育てて欲しい。」

その後の日泰建設はサリット首相が失脚したこともあって、決して順風満帆というわけではなく苦難の道を歩むことになる。